かじま・もりのすけ
明治29(1896)年、兵庫県半田村(現・たつの市揖保川町)の篤農家、永富敏夫の四男として生まれる。旧制第三高等学校(京都)から東京帝大法学部へ進み、卒業後は外務省に入省。大正11(1922)年には外交官としてドイツへ赴任。その船上で鹿島組(当時)の社長、鹿島精一に出会い、人物を見込まれてヘッドハンティングされる。昭和2(1927)年には精一の長女と結婚し鹿島姓を名乗るようになる。昭和13(1938)年、社長に就任。それ以降は欧州で培った近代的経営手法を導入して事業を急速に拡大させ、昭和22(1947)年には社名を現在の鹿島建設へ改称した。マネジメントの重要性を説き、「事業成功の秘訣20カ条」として①「旧来の方法が一番いい」という考えを捨てよ②絶えず改良を試みよ、「できない」と言わずにやってみよ③有能な指導者をつくれ④人をつくらぬ事業は滅ぶ⑤「どうなるか」を研究せよ。どうにかなるという考え方、すなわち東洋人の宿命観を捨てること⑥本を読む時間を持て⑦給料は高くせよ⑧よく働かせる人たれ⑨賞罰を明らかにせよ⑩なるべく機械を使うこと⑪部下の協力一致をはかれ⑫事業は大きさよりもつり合いが肝心⑬何よりもまず計画⑭新しい考え、新しい方法の採用を怠るな⑮独りよがりは事を損ず⑯イエスマンに取り巻かるるなかれ⑰欠陥は改良せよ⑱人を恨まず突進せよ⑲無駄を見つける目を開け⑳仕事を道楽とせよ――を掲げ、徹底して実践した。昭和28(1953)年には参議院議員に初当選。昭和32(1957)年の第一次岸内閣では北海道開発庁長官として入閣した。在任中は鹿島建設に対する北海道開発局関係の請負工事の指名停止を命令。のちに「私が大臣を辞めたとき、一番喜んだのは鹿島建設の札幌支店長であった」と語っている。昭和48(1973)年、鹿島平和研究所が明治百年記念事業として企画発刊した『日本外交史』(全38巻)の事績により文化功労者の表彰を受けた。昭和50(1975)年、79歳で死去。