おおかわ・ひろし

明治29(1896)年生まれ。新潟県加奈居村(現・新潟市西浦区)出身。岩倉鉄道学校から中央大学法学部へ進み、在学中から鉄道院に入る。卒業後は鉄道省の事務官として地方鉄道の経理知識を身に付け、計数管理では省内随一といわれた。昭和17(1942)、鉄道省の先輩である五島慶太にヘッドハンティングされ東京急行電鉄に入社。五島総帥の右腕として「大東急」の再編成という難事業に辣腕を発揮し、京王・小田急・京急の分割を陣頭指揮した。昭和21(1946)年、東急がプロ野球チーム「セネタース」を買収した際にはオーナーに就任。「東急フライヤーズ」と命名した球団の経営にあたり、昭和24(1949)年にパシフィック・リーグが創設されるとパ・リーグの初代会長にも就任した。東急の副社長に就任した昭和26(1951)年には、極度の多重債務で倒産寸前だった東京映画配給(東映)の社長にも就任。「東映」を東横映画、大泉映画と合併させ、事実上の創業者となった。上の言葉は東映の経営再建に乗り出したときのもの。制作費の上限と1本あたりの利益目標を現場に徹底しようとする大川に対して、監督や役者などの映画人たちは猛反発したが、鉄道と球団経営しかしらない「素人」の社長だからこそ、「コワイもの」なしに取り組めたと振り返った。昭和28(1958)年には『ひめゆりの塔』が大ヒット。時代劇の復活とともに多くのスター俳優を揃えた東映の業績は回復した。昭和37(1962)年、東急から引き継いだ「東映フライヤーズ」がパ・リーグ優勝し、日本シリーズでも阪神タイガースを破り念願の日本一となった。名将・水原茂をフライヤーズの監督に招聘する際には「金は出すが口は出さない」といって口説いたとされている。中央大学理事長、東横学園理事長などを歴任したほか、日本教育テレビ(現・テレビ朝日)の初代会長なども務めた。昭和46(1971)年、74歳で死去。