おにつか・きはちろう
大正7(1918)年、鳥取県生まれ。生家の坂口家は農業のかたわら因幡紙の仲買業を営む地主農家で、喜八郎は5人兄姉の末子。明治の大実業家で大倉財閥の総帥として知られる大倉喜八郎にちなんで命名されたという。鳥取一中から陸軍士官学校を目指したが肋膜炎のために断念。このため見習士官を経て、同期より1年遅れで将校となった。終戦後、戦死した友人に「老夫婦の面倒を見てやってくれ」と頼まれていた鬼塚家の養子となり神戸・三宮に移り住む。兵庫県教育委員会の保健体育課長から「青少年がスポーツに打ち込めるような、いい靴をつくってほしい」と要請されたことがきっかけとなり、昭和24(1949)年に運動靴問屋「鬼塚商会」を創業。昭和26(1951)年には、タコの吸盤をヒントにした緩衝性の高いゴム製の靴底を開発。「鬼塚式バスケットシューズ」として販売しヒット商品となる。東京オリンピックでは、オニツカの靴を履いた選手が体操、レスリング、バレーボール、マラソンなどの競技で金メダル20個、銀メダル16個、銅メダル10個を獲得した。昭和52(1977)年に現在の社名となり、社長に就任。平成4(1992)年には会長に退き、以降、日本バスケットボール協会の会長職など、多くの公職を歴任した。平成19(2007)年、89歳で死去。葬儀にはイチローや高橋尚子らのトップアスリートが多数参列した。