あおい・ちゅうじ
明治37(1904)年、富山県小杉町(現在の射水市)出身。旧家の分家の一人息子として生まれたが、1歳のときに父親の事業が破綻し母親と別離。2歳で罹患したハシカのために左眼を失明する。その後も不幸は続き、他家に嫁いでいた実母を10歳のときに、結核を病んでいた父親を11歳のときに相次いで亡くす。大正11(1922)年に富山県立工芸学校(現在の高岡工芸高校)を卒業し上京。月賦販売商の「丸二商会」に入社するとすぐに頭角を現し、大塚や浅草、九段、中野など都内の各店舗で店長として商才を発揮した。昭和6(1931)年には中野店を譲り受けて独立。昭和10(1935)年には早くも阿佐ヶ谷に支店を開設し、商号を「丸井」に変更した。月賦百貨店の草分けとして中野本店を中心に店舗展開し、順調に事業を拡大していたが、戦時下の商業活動規制により全5店舗の一時閉鎖を余儀なくされる。この言葉は「辛いこと」が続いた幼少期からの体験を振り返ったもので、これに続けて「そして、ひとの喜びを自分の喜びとする」と語っている。敗戦後は疎開先の長野県伊那市からいち早く上京して中野に仮店舗を設け、家具の現金販売で営業を開始。昭和25(1950)年には月賦販売も再開した。昭和35(1960)年には「月賦」を「クレジット」と言い換えて自社のクレジットカードを発行。「マルイの赤いカード」は若者を中心に爆発的な普及を遂げ、それによって売り上げも急増した。昭和50(1975)年、71歳で死去。