あんどう・ならろく
明治33(1900)年、大分・別府市で醤油醸造業を営む裕福な家庭の六男として生まれる。父親の安藤黄楊三は家業とは別に豊後電気鉄道(大分交通の前身)の創業にも携わり、豊後銀行頭取や大分県会議員も務めた経歴を持つ地元の名士。生後3日目で漁師の家へ里子に出され、小学校入学前まで育てられる。さらに旧制大分中学校5年生のときには近所の酒造家へ養子に出された。旧制第七高等学校造士館を経て東京帝国大学へ進学しドイツ法を学ぶが、3年生のときに養家での縁談を断ったことで勘当されたうえ、卒業前に受験した高等文官試験にも失敗してしまう。大正14(1925)年、叔父の遊学仲間だった利光鶴松(小田急電鉄の前身、小田原急行電鉄の創業者)を訪ねたことが縁で小田急へ入社。用地買収係として働いたのち監査課長、総務課長、総務部長と出世する。昭和17(1942)年、小田急は東京横浜電鉄、京浜電気鉄道と合併して東京急行電鉄、いわゆる「大東急」となったため、安藤も東急本社に勤務。東急の総帥、五島慶太のもとで人事部長などを歴任し、敗戦後の昭和21(1946)年には労組の要求で取締役に就任した。大東急の解体に際しては副社長として奔走し、昭和23(1948)年には小田急電鉄を分離発足させて初代社長に就任した。この言葉は、小田急がデパート事業へ乗り出すにあたっての意気込みを語ったもの。昭和59(1984)年、83歳で死去。