えちご・まさかず
明治34(1901)年、滋賀県葉枝見村(現在の彦根市)に生まれる。大正5(1916)年に2代目・伊藤忠兵衛の書生となり、八幡商業学校を経て神戸高等商業学校を卒業。伊藤忠に入社後は中国での繊維貿易で手腕を発揮し、入社からわずか3年で綿糸布部長に昇進。昭和2(1927)年には綿糸市場の大相場をものにし、ライバルの丸紅が綿糸経営から撤退するきっかけとなるほどの大勝利を収め「繊維相場の神様」の異名を取った。その後も取締役、常務として営業部門の最前線で陣頭指揮を執り、伊藤忠商事を世界最大の繊維商社に押し上げる立役者となったが、昭和35(1960)年に59歳で社長に就任すると「総合化と国際化」を掲げ、鉄鋼・化学などの非繊維部門を拡充して海外進出を加速。脱繊維路線の推進によって、伊藤忠商事を旧財閥系商社とも互角以上に渡り合える総合商社へ発展させ「中興の祖」と呼ばれた。この言葉は昭和46(1971)年のニクソン・ショックで全社に不安が広がった際、座右の銘としていた「成名毎在窮苦日敗事多因得意時」を用いて「成功は窮苦の間に芽生えており、失敗は得意満面の間に宿る。黒雲のうしろには、太陽が輝いている」とし、これを国内外の全支店へ社長からの激励通信として送り勇気づけたもの。平成3(1991)年、89歳で死去。