のむら・とくしち

明治11(1878)年、大阪の農人橋詰町九番地に住宅兼店舗を構えていた両替商「野村商店」の店主、野村徳七(初代)の長男として生まれる。幼名は信之助。明治25(1892)年、大阪市立商業学校(後の大阪高等商業学校、大阪商科大学、現在の大阪市立大学の前身)に入学するが、予科在学中の明治28(1895)年に肺炎を患い休学。本科への進学を断念して家業に専念する。明治40(1907)、初代の隠居に伴い二代目・徳七を襲名すると、弟の実三郎、元五郎らとともに野村商店を運営。女性店員を積極的に採用し、男性店員には背広を着用させた。また多数の電話を引くなど、当時としては進歩的な営業方針を採った。大正7(1918)年、大阪野村銀行(後の大和銀行、現在のりそな銀行の前身)を設立。大正14(1925)年には同行の証券部門を「野村證券」として独立させ、翌年1 月から営業を開始した。日露戦争、第一次世界大戦の相場で莫大な利益を得る一方、文化発展にも尽力し、日仏文化協会創立などに深く関与。この功績でフランス政府から勲章を授与されている。「得庵」と号した茶人でもあり、京都・南禅寺の近くに別邸「碧雲荘」を築造し茶会を催した。また、観世流の能楽への取り組みは趣味の域をはるかに超えた真剣なもので、碧雲荘には能舞台も設けられている。茶道具を中心とする古美術品の収集でも知られ、そのコレクションは野村美術館に収蔵されている。昭和20(1945)年、66 歳で死去。