おおたがき・しろう

明治27(1894)年生まれ。兵庫県城崎町(現在の豊岡市)出身。第五高等学校を経て京都帝国大学経済学部を卒業。日本信託銀行に入行後、阪神急行電鉄に移り阪急グループの総帥だった小林一三の片腕として活躍。昭和21(1946)年には京阪神急行電鉄(昭和18年に阪急と京阪が合併して改称)の社長に就任。在任中の昭和24(1949)年、京阪電気鉄道を分離再発足させた。昭和26(1951)年に関西電力が発足すると、財界からの強い要請を受けるかたちで初代社長に就任。小林一三はこれを聞き「太田垣は病弱で、新会社の難局に当たらせてはその生命を奪いかねない」と危惧したという。戦後復興が加速するに伴い、関西地域の電力不足が深刻化すると〝世紀の難工事〟といわれた「黒部川第四発電所」(通称:クロヨン)の建設に着手。日本アルプスを貫く建設資材運搬道路(関電大町ルート)を開通させ、そのうえで黒部川上流部に世界最大級のアーチ式ダムを建設するという超巨大プロジェクトは昭和31(1956)年に着工し、同38(1963)年に完成へとこぎつけた。総工費513億円を投じ、延べ1万人の労力が注ぎ込まれ、167人もの犠牲者を出したこの難工事には、じつに8年間の歳月が費やされた。太田垣は完成を見届けると、この翌年の昭和39(1964)年、70歳で死去。