たけつる・まさたか
明治27(1894)年、広島県竹原町(現在の竹原市)に生まれる。生家は竹原で3指に数えられる塩田地主のひとつで、製塩業のほかに酒造業も営んでいた。忠海中学(現在の広島県立忠海高校)から大阪高等工業学校(大阪大学工学部の前身)の醸造科に進み、卒業を待たずに大阪の摂津酒造へ入社。洋酒の製造部門に配属され主任技師となる。摂津酒造では純国産のウイスキーづくりを計画し、大正7(1918)年には竹鶴を単身でスコットランドへ派遣。竹鶴はグラスゴー大学で有機化学と応用化学を学んだほか、各地のウイスキー蒸留場を見学して実習を積んだ。この留学でジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)と親交を深め、大正9(1920)年に結婚。同年11月、リタを伴って帰国するが、第一次世界大戦の戦後恐慌によって資金調達が難航し、純国産ウイスキーづくりの計画は頓挫してしまう。大正11(1922)年には摂津酒造を退社して大阪の桃山中学(現在の桃山学院高校)で化学を教えていたが、翌年、大阪の洋酒製造販売業者「寿屋」(現在のサントリー)へ入社する。寿屋の鳥井信治郎社長は本格ウイスキーの国内生産を企画し、スコットランドから技師を招こうとしていたが、本場の技師たちに「わざわざ呼び寄せるまでもなく、日本には竹鶴という適任者がいる」といわれ、採用を決めたという。大正13(1924)年には山崎蒸留所が竣工し初代所長に就任、その5年後の昭和4(1929)年には「サントリー白札」(現在のサントリーホワイト)が発売される。その後、横浜・鶴見のビール工場長も兼務するが昭和9(1934)年、寿屋を退社。北海道余市町で「大日本果汁」を設立しリンゴジュースの製造を開始した。昭和10年には「日果林檎ジュース」の商品名で発売したがあまり売れず、余市で製造した最初の「ニッカウヰスキー」が熟成・出荷される昭和15(1940)年までは厳しい経営状態が続いたという。この言葉は竹鶴の経営理念を端的にあらわしたもので、これに続けて「熟成をじっくり辛抱して待つ精神や気質がないと、決してよいものはできないというのが私の信念のひとつである」と語っていたという。昭和36(1961)年、最愛のリタ夫人に先立たれた「日本のウイスキーの父」は18年後の昭和54(1979)年、85歳で死去。