なかべ・いくじろう
慶応2(1866)年、播磨国明石郡林村(現在の兵庫県明石市林)で4代続く魚屋「林屋兼松」の次男として生まれる。14歳で家督を相続し、徳島や高知沖でとれた鮮魚を大阪の魚市場へ運ぶ仕事に従事した。明治30(1897)年には押送船(帆走・漕走併用船)を小型の蒸気船で曳航する方法を思いつき実践。運搬に要する時間を飛躍的に短縮したことで、鮮度抜群の魚は大阪市場で空前の高値を付けた。ここでの収益を元手に、明治37(1904)年には山口県下関市へ本拠を移転。家業の鮮魚運搬仲買業にとどまることなく、日本初の発動機船を開発して東シナ海、朝鮮半島沖の漁場開拓にも着手した。大正13(1924)年、大洋漁業の前身となる「林兼商店」を創立。以後、漁業のほか水産加工業、海運業、造船業などにも進出し、「海」に関連した事業展開で経営の多角化を実現。「マルハ」を一大企業グループに育て上げた。この言葉は鮮魚運搬のスピードアップによって、大阪市場で巨利を得た経験のある中部の商売哲学をあらわしたもの。海がシケているときにはイカリを下ろして港に停泊し、シケがおさまってから出港するのが漁師の常識だが、それでは「大漁」の機会を逸してしまう。ひとが手をこまねいているときにこそ「大漁」のチャンスがあるという意味。昭和21(1946)年、80歳で死去。