ふくはら・ありのぶ
嘉永元(1848)年、千葉県館山市(安房国・松岡村)の郷士の家に生まれる。漢方医だった祖父の影響を受け、17歳で江戸へ出て織田研斎に西洋薬学を学んだ後、幕府医学所に進む。維新後は大学東校(東京大学医学部の前身)に学び、23歳という若さで海軍病院の薬局長に就任する。明治5(1872)年には医薬分業の実践を志して退官。東京・銀座(出雲町=現在の銀座7丁目)に日本初の西洋式調剤薬局「資生堂」を創業し、独自の薬剤を製造・販売する。明治10年の西南戦争では〝薬品特需〟の状態となり事業が拡大。明治21(1888)年には国産初の練り歯磨き粉となる「福原衛生歯磨石鹸」を発売する。その一方で、設立発起人として帝国生命保険(現在の朝日生命保険)の設立に加わり、社長として保険思想の普及にも貢献した。明治26(1893)年、海軍軍医総監だった高木兼寛の学説に基づいて開発した「脚気丸」(日本初のビタミン剤だったと推定されている)が大ヒット。明治30(1897)年からは、商品化に成功した化粧水「オイデルミン」を発売し、化粧品事業にも本格的に進出。「オイデルミン」はガラス容器の美しさもあって〝資生堂の赤い水〟として評判を呼び、現在まで100年以上続く超ロングセラー商品となった。明治35(1902)年には資生堂薬局内に「ソーダ・ファウンテン」(現在の資生堂パーラー)をオープン。日本で初めてソーダ水を販売するなど食文化にも貢献した。大正13(1924)年、76歳で死去。