まつした・こうのすけ
明治27(1894)年、和歌山県和佐村(現在の和歌山市)出身。生家は小地主だったが、父親が米相場で失敗したため、三男だった幸之助は尋常小学校を4年生で中退する。9歳で火鉢店へ丁稚に出され、次いで自転車店にも奉公した。16歳のときに大阪電燈(現在の関西電力)へ入社し、7年間の在職中に「電球ソケット」を考案。大正6(1917)年には依願退職して電球ソケットの製造販売に取り組むが売上不振が続いた。しかし、その後「アタッチメントプラグ」や「二灯用差し込みプラグ」(二股ソケット)といった新商品が大ヒット。窮地を脱してからはカンテラ式で取り外し可能な「自転車用電池ランプ」を考案し、これもヒットさせる。事業拡大に伴い乾電池の製造販売にも着手し、大正14(1925)年からは「ナショナル」の商標を使用開始した。終戦直後はGHQによって公職追放処分を受けたが間もなく社長に復帰。昭和25(1950)年以降、高額納税者の「長者番付」で合計10回「全国1位」となった。また、じつに40年連続で100位以内に登場し、生涯で約5千億円の資産を築いたと推定されている。水道哲学、ダム式経営など独特の経営哲学で日本屈指の企業グループを率い「経営の神様」と呼ばれた。松下政経塾、PHP研究所の設立者でもある。上の言葉は創業直後、「松下は何を作っている会社なのか」と問われた際の返答として従業員に語ったもの。昭和36(1961)年に会長、同48(1973)年には相談役へ退き、平成元(1989)年、94歳で死去。