いでみつ・さぞう
明治18(1885)年、福岡県赤間村(現在の宗像市)の藍問屋に生まれる。福岡市商業学校に学び神戸高等商業学校へ進む。高商出身でありながら、卒業後は神戸で小麦と石油を商う酒井商店に丁稚として入社。25歳で独立し福岡県門司市(現在の北九州市門司区)に出光興産の前身となる出光商会を創業。満鉄への車軸油の納入に成功するなど順調に業績を伸ばし、昭和12(1937)年には「多額納税」により貴族院議員となる。戦前は「法律、組織、機構の奴隷となるな」と社員に説き、軍国主義に向かう政府や欧米の石油資本からの理不尽な圧力には断固として屈しない姿勢を示した。終戦の2日後には社員に対し、「愚痴をやめよ。世界無比の三千年の歴史を見直せ。そして今から建設にかかれ」と訓辞。敗戦により海外部門をすべて失うことになったが、「家計が苦しいからと、家族を追い出すようなことができるか」として、多くの企業が人員整理を余儀なくされるなか、出光は海外部門で働いていた約1千人の従業員を1人もリストラせずに会社再建をなし遂げた。上の言葉は、知識も大切だが考えることで生まれる知恵も大切だと説いたもの。昭和28(1953)年には欧米の石油メジャーと抗争状態だったイランからガソリン・軽油を満載した出光のタンカー「日章丸二世」が川崎に入港。積荷の所有権を主張する英国の石油大手が提訴(日章丸事件)したが、最終的には出光側が勝訴し、復興途上の日本国民を勇気づけた。出光は法廷で「この問題は国際紛争を起こしておりますが、私としては日本国民の一人として俯仰天地に愧じない行動をもって終始することを、裁判長にお誓いいたします」と述べたという。昭和56(1981)年、95歳で死去。