ほんだ・そういちろう
明治39(1906)年、静岡県磐田郡光明村(現・浜松市天竜区)生まれ。高等小学校卒業後、東京・本郷区湯島(現・文京区湯島)の自動車修理工場「アート商会」に入社。6年の勤務を経て、のれん分けのかたちで浜松市に支店を開設し独立。その後、東海精機重工業(現・東海精機)の社長に就任するが、三河地震で工場が倒壊するなど甚大な被害を受ける。昭和23(1948)年、浜松市に本田技研工業を設立。自転車に付ける小型エンジンキット「スーパーカブ(のちにバイクそのものとして販売する)」が最初のヒット商品となる。排ガスによる公害を減らすためCVCCエンジンを開発。「シビック」や「アコード」が北米市場のシェアを席巻する一方で、自動車レースの最高峰「F1」でもタイトルを獲得。自動車の技術向上と産業発展を牽引し、ホンダを世界的な企業へと成長させる。昭和56(1981)年、勲一等瑞宝章を受章。この言葉はその時のもので、皇居での親授式へ実際にツナギ(作業着)を着て出席しようとした(最終的には燕尾服を着用して出席)。米国にはじめて工場を建設した際には「正装」のツナギ姿で登場し、現地の工員一人ひとりと握手して激励。工員たちは、伝説的な存在であるミスター・ホンダが自分たちと同じ服装で親しく接してくれたことに感動したという。日本人として初めて米国の自動車殿堂入りを果たし、英国機械学会からはジェイムズ・ワット国際メダルを受賞している。66歳で社長を退き、平成3(1991)年、84歳で死去。