みたらい・たけし
明治34(1901)年、大分県蒲江町(現在の佐伯市)に生まれる。生家は代々医師の旧家。昭和3(1928)年に北海道大学医学部を卒業すると上京して日本赤十字病院に勤務。その後、独立して御手洗産婦人科病院を開業する。産婦人科医として診療を続ける一方で、昭和8(1933)年には知人の吉田五郎とその義弟である内田三郎が創設した「精機光学研究所」に出資。資金の一部を援助するとともに、共同経営者として事業にも参画した。研究所は昭和12(1937)年に会社組織化され「精機光学工業株式会社」となる。昭和17(1942)年には内田がシンガポールへ赴任することになったため、御手洗が社長に就任。空襲で病院が焼失してしまったこともあり、戦後の御手洗は企業経営者としての仕事に専念するようになる。昭和22(1947)年、社名をキヤノンカメラに変更し医療用機器の研究開発にも着手。昭和42(1967)年には「右手にカメラ、左手に事務機」のスローガンを掲げ、キヤノンの多角経営を宣言した。実力主義と家族主義を旨とする経営理念を標榜し、昭和34(1959)年には他社に先駆けて早々と完全週休2日制度を導入した。この言葉は、販売パートナーを探すために米国シカゴの名門企業へカメラを売り込んだ際、相手企業から「日本製では売れない。当社のブランドであれば売れる。この条件でよければ総代理店契約をしよう」と言われたときのもの。御手洗は落胆したが、こう返答することでキヤノンの自助精神・独自路線を守ったという。昭和59(1984)年、83歳で死去。