ひろおか・あさこ
嘉永2(1849)年、京都の富商、三井家(小石川三井家)の6代当主・三井高益の4女として生まれる。幼少時から四書五経を素読するなど学問に強い関心を持つが「女子に教育は不要」という当時の商家の慣習から読書を禁じられてしまう。16歳(満年齢、以下同様)で大阪の豪商、加島屋久右衛門(8代当主)の次男・広岡信五郎と結婚。簿記や算術を独学で身につけ、両替商の大店を切り盛りする。明治18(1885)年からは炭鉱事業にも乗り出し、筑豊の潤野炭鉱(福岡県飯塚市)を買収して開発に着手する。明治21(1888)年には加島銀行を設立し、旧来の両替商から脱却した金融ビジネスを開始。明治35(1902)年には大同生命保険の設立にも参画し、その創業に深く関わった。上の言葉は、幼少時に読書を禁じられていた体験からのもので、これに関連して「読んでも消化しなければ、せっかくの真理を煙にしてしまうのです」とも語っている。明治29(1896)年、プロテスタント系のキリスト教牧師で梅花女学校(現在の梅花女子大学)の校長だった成瀬仁蔵の訪問を受け、その著書『女子教育』を手渡された浅子は、のちに「繰り返して読むこと三回、感涙止まらなかった」と述懐するほど共感。女子高等教育機関設立の必要性を説く成瀬に共鳴し、そのための資金援助を快諾した。また、自身が寄付をするだけではなく、政界・財界の有力者にも協力を要請したほか、実家の三井家一門にも働きかけて目白台(現在の東京都文京区目白台)の土地を校地として提供させ、明治34(1901)年には日本初の女子大学校となる「日本女子大学校」(現在の日本女子大学)を設立に導いた。明治37(1904)年に夫の信五郎が死去すると事業を女婿の広岡恵三(大同生命第2代社長)に託し、女性の地位向上に尽力。明治44(1911)年には洗礼を受け、日本YWCA中央委員としても活躍した。女性雑誌にも多数の論説を寄稿しており、「成功の秘訣は、その人に情熱があるかどうかにかかっている」などと同性の啓発に努めた。七転び八起きならぬ「九転十起」を座右の銘とし、寄稿の際の筆名にも「九転十起生」を用いたという。著書に『一週一信』がある。大正8(1919)年、69歳で死去。「普段から言っていることが遺言」だとして最期の言葉は残さなかったという。