ひらいわ・がいし
大正3(1914)年生まれ。愛知県常滑市出身。東京帝国大学法学部を卒業した昭和14(1939)年、東京電燈(現・東京電力)に入社するが、昭和16(1941)年に召集され、戦争末期にはニューギニア戦線でジャングルを敗走。飢えと熱病のため、107人の部隊のうち生き残ったのは平岩を含めてわずかに7人だけだったという。復職後、昭和43(1968)年に54歳で取締役就任。昭和49(1974)年には末席の常務から一足飛びに副社長となる。昭和51(1976)年、社長に就任。昭和59(1984)年には会長に退き、平成5(1993)年からは相談役を務めた。財界きっての読書家で蔵書は3万冊ともいわれる。平成2(1990)年、第7代の経団連会長に就任。平成4(1992)年、宮沢内閣が邦銀の不良債権処理のために公的資金を投入しようとした際には、経団連会長として「そんなことは考えることもできません」と反対した。上の言葉は東電の会長時代のもの。これに続けて「現在、地球上に起こっている様々な事象は、多かれ少なかれ当事者たちが『利によって行ってきた』結果である」と語った。公益事業を預かる経営者として自分自身と東電の上層部を戒めたものだが、平成14(2002)年には原発の点検記録改竄問題が発覚。相談役だった平岩を含め、東電の歴代社長4人が引責辞任した。経団連会長時代の〝平岩語録〟としては、「組織が人を動かす企業は活力を失い衰退していく。人が組織を動かす企業は発展成長する」「人間、逃げちゃいけないと思うんです。大事な時にふわっと逃げる人がいる。これ落第です。ボールは正面でつかむものです」などがあるが、福島原発事故発生時の東電社長、清水正孝氏は入院したまま辞任。〝平岩イズム〟が実践されることはなかった。昭和62(1987)年に名誉大英帝国勲章(KBE)を受勲、平成18(2006)年には桐花大綬章を受章。東電の事実上の創業者で〝電力の鬼〟の異名をとった松永安左エ門(1875~1971年)は、その遺書に「死んでも勲章位階(もとより誰もくれまいが、友人の政治家が勘違いで尽力する不心得かたく禁物)これはヘドが出るほどに嫌いに候」と書いた。平成19(2007)年、92歳で死去。