やまうち・ひろし
昭和2(1927)年、京都市で生まれる。生家は明治22(1889)年に創業した花札の老舗メーカー、任天堂の創業家で、初代社長の山内房治郎は曽祖父にあたる。早稲田大学専門部法律科に学び、在学中の昭和22(1947)年には販売子会社「丸福」の取締役に就任する。その2年後の昭和24(1949)年には、祖父で2代目社長の山内積良が急死したため大学を中退、22歳の若さで任天堂の3代目社長となる。トランプブームの衰退や経営多角化の失敗、オイルショックの影響などで、倒産の危機に3度も直面するが、「ゲーム&ウォッチ」や「ゲームボーイ」、「ファミリーコンピュータ」などの大ヒット商品を次々と開発して乗り切った。平成4(1992)年にはメジャーリーグ球団「シアトル・マリナーズ」にポケットマネーで出資。大リーグ史上初の非白人オーナーとなった。ただし、本人が「野球を観戦したことがない。興味がないんだ」と語った通り、〝大魔神〟佐々木主浩投手やイチローらの日本人選手が大活躍するようになってからも、シアトルの本拠地「セーフコ・フィールド」へは一度も足を運んだことがなかった。アメリカ人記者に「名誉あるメジャーリーグの球団オーナーとなった感想は」と質問された際にも、「正直言って何とも思っていない」と回答。その一方、花札やカルタの文化普及には熱心で、小倉百人一首文化財団の理事長を務めたほか、百人一首のテーマパーク「時雨殿」の建設費用21億円を個人で負担したという。また、京都大学医学部付属病院には、病棟の建設費用として約70億円の個人資産を寄付している。平成25(2013)年9月19日、その京大病院で死去。85歳だった。