いば・ていごう
弘化4(1847)年、近江国蒲生郡西宿村(現在の滋賀県近江八幡市)で伯太藩代官を務める伊庭家の長男として生まれ、西川吉輔に国学を学ぶ。明治元(1868)年、師の吉輔が朝廷に召し出されたあとを追って上洛し、京都御所禁衛隊に所属。翌年には京都御留守刑法官少監察となり、その後も権大巡察、司法少検事、副判事などを歴任。維新直後の明治政府で司法検察官として累進した。明治11(1878)年に官界から退くと、その翌年には叔父である広瀬宰平(初代の住友総理事)の勧めで住友に入社、そのわずか3カ月後には本店支配人に就任した。住友家からもその才覚を高く評価され、大阪紡績や大阪商船などの設立に参画したほか、煙害問題が深刻化していた別子銅山については「別子全山を旧の青々とした姿にしてこれを大自然にかえさねばならない」として、西赤石山系の山々に植林を実施。また、これらの山林を管理するために、のちの住友林業を設立した。明治28(1895)年には住友の重役会議の議長を務め、住友家の家法を改めて合議制を採用するなど経営の近代化を推進。この会議で住友銀行の創設を議決した。明治33(1900)年、総理事に就任し住友財閥の経営トップとなるが、「事業の進歩発展に最も害するものは、青年の過失ではなく、老人の跋扈である」として、わずか4年後の明治37(1904)年に57歳で勇退。しかし、住友友純(住友家15代当主=徳大寺家から迎えた女婿。西園寺公望の弟)に説得され本家の顧問職は継続した。この言葉は東嶺禅師の『宗門無尽燈論』にある「君子財を愛す、之を取るに道あり」がベースとなっており、これに感銘を受けた伊庭が商道徳の規範としたもの。大正15(1926)年、79歳で死去。