かく・りゅうざぶろう

大正15(1926)年生まれ。愛知県岡崎市出身。大分県中津市で育ち、20歳で終戦を迎えた。戦後は代用教員や行商をしながら熊本の旧制第五高等学校に学ぶ。苦学の末、千葉工業大学工学部に入学するも中退。しかしその後、九州大学経済学部へ入学し昭和29(1954) 年に卒業する。九大卒業後はキヤノンカメラ(現・キヤノン)に入社。昭和47(1972)年、取締役に就任。同49(1974) 年には常務、同52(1977) 年には社長に就任した。グローバル企業構想を打ち出し、技術力の強化や海外進出による国際化を推進。カメラ中心の光学メーカーだったキヤノンを改革し、複写機やプリンターなども取り扱う事務機・情報機器メーカーへと発展させた。このため「キヤノン中興の祖」と呼ばれる。上司に向かってズケズケとモノを言う性分で、社長だった御手洗毅にも「電卓事業に乗り出すべきだ」と進言。御手洗はソニーの井深大に相談したが「苦労しますよ」と忠告されたので、電卓事業には反対した。これに賀来は怒り「なぜ自分の部下が言うことを聞かず、他社の助言に従うのですか」と食って掛かったという。平成13(2001)年、75 歳で死去。