いしだ・れいすけ
明治19(1886)年、静岡県松崎町の漁師の家に生まれる。麻布中学校を経て明治40(1907)年に東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業し、三井物産へ入社。シアトル、ボンベイ、大連、カルカッタ、ニューヨークで支店長を歴任。大連支店長のときに大豆の取引で巨利を得たほか、ニューヨーク時代には錫の取引でも再び成功を収めた。昭和8(1933)年に取締役、昭和11(1936)年には常務に就任。昭和14(1939)年には社長に就任するが、わずか2年後の昭和16(1941)年、55歳の若さで三井物産を退社。戦後は公職追放となり国府津(現在の神奈川県小田原市)へ移り住んでいたが、昭和31(1956)年には日本国有鉄道(国鉄)監査委員長として実業界へ復帰。昭和38(1963)年には第5代国鉄総裁に就任した。在任中は「公職は奉仕すべきもの。したがって総裁報酬は返上する」と宣言。昭和39(1964)年、東海道新幹線の開通式ではテープカットを行った。昭和40(1965)年には国鉄スワローズ(現在の東京ヤクルトスワローズ)の身売りを断行。球団の経営権を産経新聞社・フジテレビへ譲渡した。上の言葉は国鉄総裁として国会に初登院した際のもの。このとき「国鉄が今日のような状態になったのは諸君(国会議員)たちにも責任がある」と発言し、政治家を痛烈に批判した。また、別の国会答弁では「人命を預かる鉄道員と、たばこ巻きの専売が同じ給料なのはおかしい」などと述べている。昭和44(1969)年、総裁を辞任。多くの職員に見送られて国鉄本社を去り、再び晴耕雨読の生活に戻った。昭和53(1978)年、92歳で死去。