まつだ・つねじ

明治28(1895)年、大阪市の天満橋筋で鉄工所を営んでいた松田重次郎(東洋工業=現・マツダ=の実質的な創業者で2代目社長)の長男として生まれる。重次郎が造船技術者として呉や佐世保など各地の海軍工廠で勤務したため、幼少期は大阪で育てられた。子どもの頃から機械好きで、学校から帰ると鉄工所で手伝いをしていたという。明治44(1911)年に大阪市立工業学校へ入学、野球部に入部。卒業後は陸軍宇治火薬製造所に勤務。昭和2(1927)年には重次郎が故郷の広島で経営していた東洋コルク工業に入社。この年、同社は東洋工業に社名変更された。昭和26(1951)年、東洋工業の3代目社長に就任。「ファミリア」「ルーチェ」などの新型車種を次々に投入していずれもヒットさせ、それまでオート三輪のメーカーに過ぎなかった東洋工業を四輪自動車メーカーに育て上げた。通産省(当時)の主導による自動車業界再編の動きに抗するため独自技術の開発に心血を注ぎ込み、昭和42(1967)年には世界初の実用・量産ロータリーエンジン搭載車「コスモスポーツ」を発売した。また、市民球団として発足した広島カープが経営困難に陥った昭和37(1962)年には球団社長に就任。昭和43(1968)年には松田家と東洋工業が共同で出資する「広島東洋カープ」が設立され、初代球団オーナーとなった。上の言葉はその頃のもの。事実、球団社長に就任後、真っ先に取り組んだ仕事は選手の合宿所の建設だった。同時に「しばらく面倒を見るが、決して球団を私しない」「いずれは東洋の二文字は削って、真の野球会社として成功させる」などと語っていた。昭和45(1970)年、74歳で死去。それから5年後の昭和50(1975)年、〝赤ヘル軍団〟と呼ばれたカープはセ・リーグ初優勝を遂げている。