きど・しろう

明治27(1894)年、東京・築地生まれ。生家は精養軒(現在の上野精養軒)を営む北村家。府立一中、一高を経て東京帝国大学法学部英法科に学び、卒業後は国際信託銀行(現在のみずほ銀行の前身のひとつ)に入行するが、大正10(1921)年には松竹キネマに転じる。入社からわずか3年後の大正13(1924)年には松竹蒲田撮影所の所長に就任。スター俳優を中心にしたそれまでの映画づくりを見直し、監督第一主義を掲げて『愛染かつら』『君の名は』などの作品を次々にヒットさせた。また、小津安二郎や山田洋次らの名監督を見出し、辣腕プロデューサーとして松竹映画の黄金時代を築き上げた。松竹の社長だった大谷竹次郎の女婿となり城戸姓を名乗ると、昭和21(1946)年に副社長、昭和29(1954)年には社長に就任した。この言葉は山田洋次監督に向けたもの。ハナ肇主演の喜劇シリーズを撮っていた山田監督が、作品を重ねるごとに観客が減っていくことで悩んでいると、こう言って励ました。その後、『男はつらいよ』シリーズがヒットすると「よかった、よかった。スタッフとおでんでも食ってこい」と言い、山田監督に自分の財布を渡して大喜びしたという。昭和52(1977)年、82 歳で死去。現在の松竹の社長、迫本淳一氏は孫。日本映画製作者連盟が新人脚本家を発掘する目的で制定した「城戸賞」にその名が冠されている。