さえき・いさむ
明治36(1903)年生まれ。愛媛県丹原町(現在の西条市)出身。東京帝国大学法学部を卒業後、昭和2(1927)年に近畿日本鉄道の前身である大阪電気軌道へ入社。駅員や運転手など鉄道員としての現場を経て本社庶務課に勤務。秘書課長、総務部長と昇進し、昭和22(1947)年3月には43歳で取締役に就任。その翌月には専務となり、参議院議員を兼任していた村上義一社長に代わって経営の陣頭指揮を執った。昭和24(1949)年にはプロ野球球団「近鉄パールズ」を創設して初代オーナーとなり、パシフィック・リーグに加盟。以後、30年以上にわたって球団オーナーを務めた。昭和26(1951)年には近鉄の7代目社長に就任。同社で初の〝生え抜き社長〟となった。トップとなってからは私鉄間の合併や路線延伸などの積極策により業容を急拡大。近鉄を私鉄最大手へと押し上げた。同時に、近鉄百貨店や近畿日本ツーリストなど、グループ中核企業の発展にも手腕を発揮し「近鉄中興の祖」と呼ばれた。社長を20年以上務め、昭和48(1973)年に会長になってからもトップとして経営にタッチし、昭和62(1987)年には84歳で「代表取締役相談役名誉会長」に就任。近鉄グループの〝総帥〟として影響力を持ち続けた。平成元(1989)年10月5日、86歳で死去。近鉄バファローズはこの日まで、パ・リーグ首位のオリックスに3ゲーム差をつけられていたが、9日後の10月14日、勝率わずか1厘差での逆転優勝を飾った。