いぶか・まさる
明治41(1908)年、栃木県日光町(現在の日光市)に生まれる。青銅技師・水力発電所建設技師だった父が死去したことで、愛知県安城市の祖父の家へ2歳のときに引き取られる。のちに母の再婚先である神戸市へ転居。兵庫県立第一神戸中学校から第一早稲田高等学院を経て早稲田大学理工学部に学ぶ。卒業後は東京芝浦電気(現在の東芝)の入社試験を受けるが不採用となり、写真科学研究所(PCL)に入社。同社の取締役だった増谷麟の屋敷に下宿する。このPCL時代には、パリ万国博覧会に出品した「走るネオン」で金賞を獲得している。日本光音工業に移籍後、同社からの出資を受けて日本測定器を設立。常務に就任し、戦前・戦中は軍需電子機器の開発に取り組む。終戦翌日には疎開先の長野県須坂町(現在の須坂市)から上京。わずか2カ月後の昭和20(1945)年10月、東京・日本橋の旧白木屋店内で個人企業「東京通信研究所」を立ち上げると、戦争中に「戦時科学技術研究会」で知り合った盛田昭夫(元海軍技術中尉)が合流。この年、早くも日本初のテープレコーダーを開発する。昭和21(1946)年5月には「東京通信工業」の社名で株式会社化し、井深が技術担当の専務、盛田が営業担当の常務、PCL時代に上司だった増田が監査役に就任。社長には井深の義父で、終戦直後の東久邇内閣で文部大臣を務めた前田多門を据えた。設立趣意書には「真面目ナル技術者ノ技能ヲ最高度ニ発揮セシムベキ自由闊達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設」と記されている。資本金19万円、社員20数人でスタートした同社は、昭和30(1955)年にトランジスタラジオを発売。昭和33(1958)年には商標の「SONY」を社名にも採用。ソニーはこの年、東証一部上場を果たした。平成9(1997)年、89歳で死去。