ごとう・けいた

明治15(1882)年、長野県青木村の農家、小林家の次男として生まれる。明治36(1903)年、東京高等師範学校英文科に入学。卒業後は英語教師として赴任したが、明治40(1907)年9月には辞職して東京帝国大学政治学科(選科)へ入学。同年10月、東京帝大法学部(本科)へ転学した。明治44(1911)年、29歳で卒業し農商務省と鉄道院で約9年間、官僚として勤務。この間、皇居二重橋の設計者である工学博士、久米民之助の長女と結婚し、久米博士の祖母の実家である五島家を再興した。大正9(1920)年には官を辞し、民間の武蔵電気鉄道へ転じて常務に就任。大正11(1922)年には荏原電気鉄道(目黒蒲田電鉄)の専務も兼任するようになった。目蒲線が全線開通した時期が関東大震災の発生と重なったため、沿線への移住が一気に加速して業績は急上昇。その利益で武蔵電鉄の株式を過半数取得し、社名を東京横浜電鉄に変更。昭和2(1927)年には東横線(渋谷~神奈川)を開通させた。電鉄株を中心に株を買い占め、次々と吸収・合併していく強引な乗っ取り手法から「強盗慶太」と呼ばれた。買収した企業は100社以上を数えるが、その一方で倒産寸前だった東映の再建に取り組むなど、多くの企業再生にも手腕を発揮した。昭和19(1944)年、東條内閣の運輸通信大臣に就任するが、この閣僚経験がアダとなり、戦後はGHQによって公職追放される。解除後は東急電鉄会長に就任し、白木屋の乗っ取りなどを成功させた。東洋精糖の買収に乗り出した昭和34(1959)年、77歳で死去。その東洋精糖株は死後27日目に手放された。後継者で東急グループの総帥となった五島昇(故人)は、「親父が最後の10年間でやった買収は全部失敗だ」と述べている。