旧青木家那須別邸

栃木・那須塩原市(2017年12月号)



 栃木県北部。那須野が原は那珂川と箒川との間に形成された複合扇状地で、その面積はおよそ400㎢にもおよぶ。江戸末期までは水利の悪さから農耕には不向きな土地とされ、ほとんど住む人のいない原野の状態だったという。

 

 明治に入ると、この広大な土地を開拓しようという計画が持ち上がり、まず「那須疏水」が設けられる。疏水とは、給水や灌漑、水運などのために新しく土地を拓いて水路をつくること。明治18(1885)年に、わずか5カ月間の工期で開削され、明治38(1905)年までに水門や導水路なども整備された那須疏水は、安積疏水(福島)、琵琶湖疏水(京都)と並んで日本三大疏水にも数えられる大規模なものだ。

 

 これによって那須野が原全域へ農業用水が供給されるようになると、続々と入植者が集まるようになった。その中心となったのが華族の資本・経営による「華族農場」。明治政府の殖産興業政策に基づいて、政府高官だった華族たちが大農場を次々と開設。毛利元敏子爵(旧豊浦藩主)や戸田氏共伯爵(旧大垣藩主)らの旧大名家当主をはじめ、松方正義公爵や山縣有朋公爵といった明治の元勲もこの地に農場を持った。「青木農場(青木開墾)」も、そうした華族農場のひとつ。林業を目的として明治14(1881)年に開設されたものだ。

 

 開設者の青木周蔵子爵(1844〜1914年)は長州出身の外交官。イギリス、ベルギー、ドイツ、オランダ、デンマーク、オーストリア、ハンガリー等の全権公使を歴任したほか在米日本大使も務め、各国との条約改正交渉に深くかかわった。山縣内閣、松方内閣では外務大臣にも就任している。

 

 青木農場は広大な原野約577町歩(約5・7㎢)を国から借り受けて開墾し、最終期の明治21(1888)年には総計1580町歩(約15・7㎢)まで拡大された。

 

 旧青木家那須別邸は、農場管理施設を兼ねた別荘として明治21(1888)年に建築されたもの。当初の建物は中央棟のみだったという。これに接続する東棟と西棟は明治42(1909)年に増築され、同時期に中央棟屋上の物見台も設置された。

 

 ドイツのベルリン工科大学で建築を学び、帰国後には七十七銀行本店や台湾鉄道ホテルなどを手掛けた松ヶ崎萬長が設計を担当。松ヶ崎は造家学会(現在の日本建築学会)の創立委員を務めたほどの著名な建築家だったが、日本国内に現存する作品はこれが唯一のものとなっている。

 

 並木道のアプローチを抜けると白く壮麗な洋館が現れる。蔦形と鱗形の壁材を使い、軽快な印象を与える外観。とくに、寄棟屋根の中に設けられた窓が特徴的だ。屋根には独特の意匠が用いられており、ハンマービームトラスの手法をモチーフに構成した出窓やドーマー窓(屋根窓)には、和風建築のような飾りが施されている。階段ホールなどの空間構成にも優れており、構造面では軸組や小屋裏の扱いなどにドイツ建築の影響が強く見出せる。室内は簡素な造作で、華美な装飾は施されていない。マントルピースには栃木県産の大谷石を使用。展望台の手すりは飾り柵をイメージさせるデザインとなっている。

 

 旧青木家那須別邸は、那須野が原の開拓の歴史と、農場経営者であった明治の元勲たちの生活を物語る数少ない建築遺産だが、一時は存続が危ぶまれたほど破損がひどかった。

 

 昭和40年代までは青木家の別荘として実際に使用されていたが、その後は長く放置されていた。そこで栃木県では、平成8年から10年にかけて大規模な保存修理事業を実施。現在は、道の駅「明治の森・黒磯」の中核施設として活用されている。内部は情報案内所、休息の場、さらには那須野が原開拓の歴史や、青木周蔵とその那須別邸に関する資料展示室として一般に公開されている。

(写真提供:那須塩原市教育委員会)