旧内田定槌邸(外交官の家)

横浜市・中区(2018年2月号)



 横浜。水路や花壇を幾何学式に配した「山手イタリア山庭園」のなかに、この洋館は佇んでいる。ここがイタリア山と呼ばれるようになったのは、明治13(1880)年から同19年まで、イタリア領事館が置かれていたためだ。そこへ後年、日本人外交官、内田定槌(うちだ・さだつち)の邸宅が移築された。領事館跡地の庭園に建つこの洋館は今日、「外交官の家」の名で呼ばれ、地元市民をはじめ横浜を訪れる多くの観光客にも親しまれている。

 

 内田定槌は幕末の元治2(1865)年、豊前・小倉(現在の北九州市)で生まれた。明治22(1889)年に東京帝国大学法科大学を卒業すると外務省へ入省。副領事として上海へ赴任したのを皮切りに、漢城領事、ニューヨーク総領事などを歴任した。明治39(1906)年にはブラジル弁理公使となり、その翌年には特命全権公使に就任。その後、スウェーデン公使に就任した際にはデンマーク、ノルウェーの公使も兼任した。大正9(1920)年にはトルコへ派遣され外交手腕を発揮。のちに特命全権大使となって両国の親善交流に尽力し、退官後も日土協会会長や日土貿易協会顧問を務めた。

 

 この洋館は明治43(1910)年、東京・渋谷区の南平台に建てられたもの。設計はアメリカ人建築家のジェームズ・マクドナルド・ガーディナーが担当した。

 

 ガーディナーはハーバード大学を中退後(のちに論文提出により学位取得)、米国の聖公会伝道局から築地立教学校(立教大学の前身)へ派遣された教育者でもあり、はじめは立教学校の第3代校長として日本に着任した。明治24(1891)年に立教大学校長を退任すると建築家としての活動を本格化。その一方で、明治28(1895)年にはハーバード大学出身の小村寿太郎(日露戦争後のポーツマス会議で日本全権として条約調印。のちに外務大臣)らとともに日本ハーバードクラブを設立するなど、明治政府の外交筋と親交を深めた。邸宅を建築するにあたって、外交官の内田がガーディナーに設計を依頼したのも、こうした関係によるものだと考えられる。

 

 「外交官の家」は、最上部が展望室となっている八角形の塔屋が印象的な木造2階建洋風建築。屋根は天然スレート葺き、外壁は下見板張りで、華やかな装飾が特徴のアメリカン・ヴィクトリア様式の影響を色濃く残したモダンな外観。1階には食堂や大小の広間など重厚な部屋が配置され、2階には寝室や書斎など生活感あふれる部屋が並ぶ。訪客の多い外交官の邸宅にふさわしく、接遇のためのスペースとプライベートな空間をきっちりと分けた間取りとなっている。

 

 玄関扉のすりガラスには内田家の家紋 「丸に剣三つ柏」が見える。内扉にはステンドガラスが用いられており、外光の優しい色彩を取り入れている。こうした建具・家具や室内装飾には、随所にアール・ヌーボー風の意匠とともに、19世紀のイギリスで展開された美術工芸改革運動、アーツ・アンド・クラフツのアメリカにおける影響も見られる。

 

 平成9(1997)年に内田の孫にあたる宮入氏から建物の寄贈を受けた横浜市では、山手イタリア山庭園内に移築復原することを決定。同年、国の重要文化財に指定された。竣工後100年を超えてもなお美しく保たれた外交官の家・旧内田定槌邸が、この地に移築されて20年余。いまでは諸外国へと通じる海の玄関口〝港ヨコハマ〞の風景の一部となっている。

 (写真提供:公益財団法人 横浜市緑の協会)