旧池田氏庭園洋館

秋田・大仙市(2015年6月号)



 平成17(2005)年に大曲市と仙北郡の7町村が合併して誕生した大仙市は、秋田県の南東部に位置する人口8万4千人の街だ。横手盆地の北部には国内有数の穀倉地帯である仙北平野が広がり、それを出羽山地と真昼山地の山々が囲む。毎年8月に雄物川の河川敷で開かれる「全国花火競技大会」は「大曲の花火」として知られ、全国各地から数十万人の観光客が訪れる。

 

 「旧池田氏庭園」内に建つこの洋館は、大正11(1922)年に竣工したもの。山形県酒田市の本間家、宮城県石巻市の斎藤家とともに「東北三大地主」に数えられた池田家は、江戸時代初期から代々続く豪農で、とくに明治から終戦後の農地解放までは秋田県の政治・経済・文化に多大な影響を与えた資産家一族として知られる。

 

 12代当主の池田甚之助は秋田県選出の最初の貴族院議員で、秋田銀行の初代頭取や高梨村(現在の大仙市高梨)の初代村長などを歴任した。13代当主の池田文太郎は耕地1046町歩(1054ヘクタール=東京ドーム225個分)を所有し、池田家の最盛期を築いた人物。

 

 この洋館は14代当主の池田文一郎(明治26〜昭和18年=1893〜1943年)が私設公開図書館として建てたもの。文一郎は秋田県立秋田図書館大曲分館長を務めたひとで、この地域の青少年教育と文化的向上に尽力した。昭和5(1930)年には、平安時代の城柵遺跡である「払田柵跡(ほったのさくあと)」の発掘調査を経済的に援助。この遺跡は秋田県内では初となる国の史跡に指定されている。

 

 池泉廻遊式の日本庭園は、明治時代後期から大正時代にかけて作庭されたもの。約4万2千平方メートル(約1万2700坪)の広大な敷地は池田家の家紋(亀甲桔梗)と同じ「亀甲」形で、その周囲は石垣と土塁で区画されている。東京府の公園係長などを務めた公園行政官のパイオニア的な存在で、のちに「近代造園の祖」と呼ばれた造園家の長岡安平が作庭を手がけた。様々な樹木からなる屋敷林のなかには、高さが4メートルで笠の直径も4メートルという巨大な石造の雪見灯籠や、高さ4・8メートルの石造五重層塔などが配置され、傑出した景観をつくりだしている。

 

 洋館は秋田県内で最初の鉄筋コンクリート造の建築物。池田家に残る建設当時の日誌によると、設計者は秋田市出身の建築家・今村敬輔で、家具・調度品を含めた建設費は10万2568円だったと記録されている。

 

 この洋館が竣工したのは大正11年だが、その前年の大正10年にはシベリア出兵などがあったため物価が高騰しており、資材の値上がりが建設コストを膨らませた要因のひとつとも考えられている。しかし、大卒初任給が50円、米1升が60銭、もりそば1枚・カレーライス1杯がそれぞれ10銭というこの当時、「地域の青少年に開放する私設公開図書館」へこれだけの巨費を投じることができた池田家の財力は、まさに「東北三大地主」の名に恥じないものだといえるだろう。

 

 外壁には光沢のある白磁のタイルが用いられ、御影石を廻らせた基壇や白色大理石を使った車寄せの柱とともに美しい外観を構成している。池を眺める向きに階段を配置し、それを見下ろせるように踊り場が設けられている。漆喰を基調として仕上げられた館内は、金唐革紙(きんからかわし)の高級壁紙で彩られるなど、随所にルネサンス様式を取り入れている。外装や建具などにはヒバ、内装造作にはヒノキなどの木材が使用され、華麗で豪華な装飾が施された天井や建具のドア、腰高の壁などには当時の高級建材であったベニヤが使われている。

 

 平成16(2004)年には「旧池田氏庭園」として国の名勝に指定され、平成19年に池田家から大仙市へ寄贈された。国の名勝に指定されたことで、この洋館も平成18年から5年をかけて修復された。総工費は約2億8千万円で、国と現在の所有者である大仙市とで半額ずつ負担したという。

(写真提供:大仙市)