おおつき・ぶんぺい
明治36(1903)年生まれ。宮城県出身。昭和3(1928)年、東京帝国大学法学部を卒業後、三菱鉱業に入社。労務畑一筋に歩み、労働部長などを経て同38(1963)年に社長就任。戦後のエネルギーが石炭から石油へと転換するなか、同44(1969)年には炭鉱の整理と大幅な人員削減を実施して「人切り文平」と呼ばれた。しかし、その一方で「従業員が安心して生活できることなくして社業の繁栄はありえないし、社業の隆盛なくして従業員の幸福もありえない。経営者の責務は働く者の生活に責任をもち、会社を立派に育て、それを次の後輩に渡していくことにある」と述べ、従業員の再就職先斡旋に奔走し、ひとりの失業者も出さない穏健策で事態を収拾した。同時に、石炭に代わる新規事業への進出を図り、三菱鉱業セメント(現在の三菱マテリアル)を設立して社長に就任。斜陽産業を成長産業に切り替えた経営手腕が高く評価され、同54(1979)年からの8年間は日本経営者団体連盟(日経連)の会長を務めた。「日本人は贅沢になり、何もかもが派手になり過ぎている」としてベア抑制を主張し、自らもハンブル・ライフ(質素な暮し=つつましい生活)を実践。財界首脳から批判を浴びつつも賃上げ抑制を敢行し成功に導いた。同62(1987)年には臨時行政改革推進審議会の会長も務めた。平成4(1992)年、88歳で死去。