旧古河男爵邸

東京・北区(2012年12月号)



 都立庭園のなかに佇む瀟洒な洋館。旧古河庭園は、武蔵野台地の地形を巧みに活かして、小高い丘には洋館を、斜面には洋風庭園を、そして低地には日本庭園を絶妙のバランスで配している。

 

 この土地は明治の元勲の一人、陸奥宗光の別邸があった場所だが、陸奥の次男が古河財閥創始者(古河市兵衛)の養子になってからは古河家の所有となった。

 

 この洋館は1917(大正6)年、古河財閥3代目当主の古河虎之助男爵(市兵衛の実子)が、自身の邸宅として建築したもの。洋館と洋風庭園は英国人建築家のジョサイア・コンドル(1852~1920)が設計・造園を手がけ、日本庭園は京都の庭師「植治」こと小川治兵衛(1860~1933)が作庭した。

 

 ルネサンス調の洋館は地上2階・地下1階建。レンガ造の躯体の外壁を、真鶴産の新小松石(安山岩)の野面石積で覆った重厚感あふれる意匠が特徴的。

 

 関東大震災時には約2千人の避難者を収容し、1926(大正15)年に虎之助夫妻が転居してからは古川家の迎賓館として使用された。戦中は陸軍に接収され、後に中国で南京国民政府を樹立する汪兆銘が滞在したこともあるという。戦後は連合軍に接収され、英国大使館付駐日武官の宿舎としても利用されるなど、歴史の激動に巻き込まれた。

 

 終戦直後には「財産税」の物納で国有財産になったが、地元の要望により東京都が国から無償で借り受け、「都立庭園旧古河庭園」として整備し、一般公開されるようになった。

 

 洋風庭園は「バラ園」の愛称でも呼ばれる。左右対称の幾何学模様が特徴的な「フランス整形式庭園」と、石の欄干や石段、水盤などの立体的な造園が特徴の「イタリア露壇式庭園」の技法とを併用し、バラの季節には洋館をバックに色とりどりの花が咲き誇る絵画的な景観を織りなす。バラの開花時期(春バラ=5月中旬~6月、秋バラ=10月中旬~11月)に合わせて「バラフェスティバル」と題したイベントが開催される。

 

 心字池を中心に枯山水、大滝、茶室などを配した日本庭園は、本格的な回遊式庭園。台地斜面上の大滝付近の植え込みが深山の趣を醸し出し、庭園の構成に深みを与えている。冬には松の「雪吊」と「菰巻」や、ソテツの「霜除」が風物詩となっている。

 

 1956(昭和31)年に都立庭園として開園したものの、その後も洋館は半ば放置された状態で荒廃が進んだ。しかし、1989(平成元)年まで約7年をかけて修復工事が施され、現在の状態まで復元された。2006(平成18)年には、大正時代初期の造園手法を保存した庭園が評価され、国の名勝に指定されている。