ながおか・みのる

大正13(1924)年生まれ。東京市牛込区(現在の東京都新宿区)出身。父親の長岡信捷は逓信省郵務局長を務めた官吏。府立一中から旧制一高を経て昭和19(1944)年に海軍経理学校へ入学。終戦を挟み昭和22(1947)年に東京帝国大学法学部を卒業後、大蔵省へ入省。同期には入省後9カ月で役所を辞めた平岡公威(三島由紀夫の本名)がいた。昭和54(1979)年7月、主計局長を経て大蔵事務次官に就任するが、電電公社などをめぐる一連の「公費天国問題」が噴出。鉄建公団のカラ出張手当・カラ超過時間勤務手当不正問題などに主計局が関わっていたとして長岡も戒告処分となった。この年から翌年にかけて、総選挙での自民党敗北、その後のいわゆる「四十日抗争」と呼ばれる自民党内派閥抗争、大平正芳首相の一般消費税導入断念声明、それに続く大平内閣不信任決議案可決を受けての衆院解散(ハプニング解散)と総選挙、さらには選挙戦中の昭和55(1980)年6月12日に大平首相が急死するといった政局混乱の中、6月17日に次官在任1年足らずで退任。大蔵省では主計畑を歩み、32年半におよぶ官僚人生の大半を予算編成の仕事に費やした。退官から1年後の昭和56(1981)年7月、日本専売公社副総裁に就任。その翌年には総裁に昇格し、昭和60(1985)年に日本たばこ産業(JT)が誕生すると初代社長に就任した。昭和63(1988)年には、当時、大蔵事務次官経験者の指定席とされていた東京証券取引所理事長に就任。バブル経済が崩壊し、野村證券の損失補てん問題や都市銀行各行の不正融資事件など、一連の証券・金融不祥事が明るみに出たことで、宮澤喜一政権による株価対策が浮上すると、平成4(1992)年の記者会見で「株価は市場が決めるものだ」と一喝し、政府による株式市場への介入を牽制した。退官後は役人生活よりも長い歳月の〝華麗なる天下り人生〟を送り、平成30(2018)年、93歳で死去。