にしやま・やたろう

明治26(1893)年生まれ。神奈川県二宮町出身。大正8(1919)年、東京帝国大学工学部採鉱冶金学科を卒業後、川崎造船所(のちの川崎重工業の前身)に入社。一貫して鉄鋼畑を歩み、川崎重工製鈑工場(神戸市)の工場長などを歴任。終戦間際の昭和20(1945)年6月には、米軍による神戸への大規模な空襲で木造の事務所棟などが焼失してしまったが、製鉄所長だった西山は「鉄屋が鉄をつくるのに事務所なんか要るか。現場の隅に机ひとつもあれば十分だ。工場の機械類はひとつもやられていない。ひとと電気系統と燃料さえあれば、今すぐにでも操業できる」と言って従業員を鼓舞した。昭和25(1950)年、鉄鋼部門が分離独立するかたちで川崎製鉄が設立されると初代社長に就任。同時に、戦後初の臨海製鉄所を千葉市に建設すると発表した。しかし、資本金5億円の会社が163億円もの巨費を投じるというこの計画には、内外から「無謀」「暴挙」「二重投資」といった批判が殺到。とくに当時、日銀の〝法王〟と呼ばれていた一万田尚登総裁からは、金融引き締め政策に逆行する巨額投資計画に対して「建設を強行するなら製鉄所の敷地にぺんぺん草が生えることになる」と反対された。それでも西山は、日本興業銀行の中山素平(当時は興銀常務で日本開発銀行へ次席理事として出向中)らの協力を得ることに成功し計画を推進。昭和28(1953)年には千葉製鉄所第一溶鉱炉(1号高炉)の火入れにこぎつけた。銑鋼一貫の千葉製鉄所は順次増強され、昭和48(1973)年には粗鋼生産量625万トンを達成。この成功は当時の経営者に多大な影響を与え、企業による大胆な設備投資を促し、高度経済成長を推進させる要因のひとつになったとされている。昭和41(1966)年、会長在任中に73歳で死去。