しらいし・もとじろう

慶応3(1867)年生まれ。福島県白河市出身。明治25(1892)年、東京帝国大学法科大学を卒業し浅野商店へ入社。浅野財閥の総帥でセメント王と呼ばれた浅野総一郎に見出され東洋汽船の経営に参画すると、当時の造船技術では規模的に不可能とされていた1万3000トン級の大型船舶建造に成功した。明治45(1912)年には帝大時代の学友で八幡製鉄所出身の技術者・今泉嘉一郎に協力し、資本金200万円で日本鋼管を設立。当時、すべて輸入に頼っていた民需用鋼管の国産化を目指したもので、これが民間資本による経営としては日本初の本格的な鉄鋼会社となった。この頃、浅野総一郎の娘と結婚。浅野財閥が工業用地として整備・埋立開発し、セメント工場などを稼働していた神奈川県川崎市に日本鋼管の本社・工場を置いた。大正15(1926)年に鶴見臨港鉄道の貨物駅として開業した武蔵白石駅(川崎市川崎区白石町)は白石にちなんで名付けられたもので、JR鶴見線の旅客駅となった現在でも駅名や駅所在地の町名として残っている。この言葉は、日本鋼管の社長時代に、当時の部下で帝大法科の後輩にもあたる河田重へ人生訓として伝えたもの。戦後、日本鋼管の社長となり、鉄鋼業界の復興にも尽力した河田は、「あくせくするな、ロングランで行け!と、よく言われた。『人生行路を走るには長距離選手でなければならぬ。そのためには、まず体を大事にしろ。長生きした者が最後の勝利を得る』というのが白石さんの持論であったが、この白石説には、私は大いに教えられた」と語っている。河田に長生きを説いた白石は昭和20(1945)年、78歳で死去。河田は昭和49(1974)年に86歳で世を去っている。