旧山邑家住宅(ヨドコウ迎賓館)

兵庫・芦屋市(2014年4月号)



 兵庫県芦屋市。「旧山邑家住宅」は国内屈指の高級住宅地、芦屋の市街を一望できる高台に建つ豪壮な洋館建築だ。

 

 基本設計を担当したのはアメリカ人建築家、フランク・ロイド・ライト。ル・コルビュジェ、ミース・ファン・デル・ローエとともに「近代建築の三大巨匠」と並び称されるライトが日本で手がけた建築物のなかで、完全な姿で現存するのはこれが唯一の作品だとされている。監修は弟子の日本人建築家、遠藤新(えんどう・あらた)が担当。ライト・遠藤のコンビはこのほか、帝国ホテル新館や自由学園明日館などの建築作品を残している。

 

 大正7(1918)年にライトによる基本設計が終了。それから5年後の大正12(1923)年にようやく着工したが、当時ではまだ珍しかった鉄筋コンクリート構造(RC造)のため工期は短く、その翌年、大正13 (1924)年には竣工している。

 

 施主の山邑太左衛門は「灘の生一本」で知られる日本酒の生産地、灘五郷(現在の神戸市東灘区・灘区と西宮市にあたる地域の5つの郷)の酒造家で、魚崎郷(現在の東灘区魚崎・本庄地区)の蔵元「櫻正宗」の8代目当主だったひと。享保2(1717)年の創業という老舗中の老舗の当主だからこそ、当時すでに建築界で〝巨匠〞と呼ばれていたライトにも、設計を依頼できるだけの財力があったのだろう。「太左衛門」は山邑家当主の世襲名で、現在の社長さんもこれを名乗っている。

 

 この邸宅は8代目太左衛門の別邸として建てられたもの。丘の上に位置する豪邸らしく、鉄門扉を抜けるとなだらかな勾配のスロープがあらわれる。ゆったりと左へ曲がりながら建物正面までのアプローチをのぼってゆくと、1階部を突き抜けるかたちで車寄せが設けられている。ふんだんに使用された大谷石には、そのひとつひとつに繊細な彫刻が施されており、車寄せの開放部を反対側へ進めば、そこから芦屋市街を眼下に見ることができる。

 

 大正時代の個人の邸宅としては構造・階層ともに先進的で大規模といえるRC造・4階建て。室内の装飾、照明器具、調度品に至るまで統一されたスタイル・デザインを採用するライトの設計らしく、2階の応接室をはじめ随所に石材やマホガニー材の建具が並ぶ。暖炉を配置した壁面の上部には湿気対策にもなる明かり取りの小窓が多くつくられている。

 

 3階の和室へと続く廊下には、幅が広い石造りの階段が数段だけ設けられており、段差をつけることによってあえて洋式と和式の空間の境界を演出している。最上階にあたる4階には食堂が配置されており、この天井にも星空を感じながら食事が楽しめるように明り取りがつくられている。食堂は広々としたバルコニーへ直接つながっていて、手すり部分にまで細かい彫刻が施されている。このバルコニーからは豊かな緑が映える六甲の山並みや芦屋川、大阪湾が一望できる。

 

 この邸宅はその後、昭和10(1935)年に売却され、内外綿(綿原料商社・紡績会社。現在、シキボウ系列の繊維会社である新内外綿の前身)の取締役だった天木繁二郎の所有となり別荘として使われた。戦後は全国の主だった洋館建築がそうされたように、ここもGHQに接収され、進駐軍の社交場として使用された。

 

 昭和22(1947)年には淀川製鋼所(ヨドコウ)の所有となり、社長公邸として使用されたが、昭和34(1959)年からは貸家として米国人に貸していた期間があったという。昭和46(1971)年から同48(1973)年まではヨドコウの独身寮にしていた時期もあったというが、昭和49(1974)年に国から重要文化財の指定を受けたことで調査工事を実施。昭和60(1985)年から約3年をかけて大規模な保存修理工事を完工させた。

 

 平成元(1989)年からは「淀川製鋼所迎賓館(ヨドコウ迎賓館)」として一般公開されているが、平成7(1995)年に発生した阪神淡路大震災で一部が破損。このときも調査・修理工事に約3年の期間を要したが、平成10(1998)年までに修復が完了。築後70年以上を経た鉄筋コンクリート構造の歴史的建築物は、大震災の被害からも見事に復活し、同年5月から一般公開を再開している。