旧中埜家住宅

愛知・半田市(2018年7月号)



  知多半島を南北に走る名鉄河和線。知多半田駅を降りると商店街の一角の小高い丘の上に家政専門学校を運営する公益財団法人桐華学園がある。旧中埜家住宅は、この学園構内の西北隅に南面して建てられている山荘風の瀟洒な洋風建築だ。

 

 この地域を代表する地方財閥、旧中埜半六家の第10代当主が英国留学中に目にしたヨーロッパの住宅の美しさにひかれ、それを模して別邸として建てたものといわれている。旧中埜半六家は江戸時代から続く地元の名家で、半田市を拠点として海運業や醸造業で財を成した。「半六」の名は歴代の当主が継承する世襲名。酢の醸造メーカー、ミツカングループの創業家である旧中埜又左衛門家や、半田で代々庄屋を営み10代目当主が町長を経て初代市長を務めた旧中埜半左衛門家などとともに、中埜(いずれも旧姓は中野、明治期以降に中埜へ改姓)家の閨閥は地元の政財界に大きな影響力を持った。

 

 この邸宅は明治44(1911)年に竣工したもの。名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学の前身)建築科長の鈴木禎次教授が設計を手がけた。鈴木は妻同士が姉妹という関係で、夏目漱石の義弟にあたる人物。明治29(1896)年に東京帝国大学工科大学造家学科を卒業し、その翌年には三井銀行へ入行。同行の建築係として勤務していたが、明治36(1903)年には文部省の指示で英仏へ留学した。明治39(1906)年に帰国すると名古屋高等工業学校の教授に就任。大正11(1922)年まで同校で教鞭をとった。退官後は名古屋市内に鈴木建築事務所を開設し、生涯でおよそ80棟の建築物を設計した。旧岡崎銀行本店(現在の岡崎信用金庫資料館)や鶴舞公園奏楽堂・噴水塔(名古屋市昭和区)など、作品のほとんどが愛知県内、とくに名古屋市内に集中していることから「名古屋をつくった建築家」とも呼ばれる。

 

 木造煉瓦造2階建のこの邸宅は、現存する鈴木の作品の中でも代表的なものとされている。屋根は天然スレート葺。基礎は石と煉瓦積。1階は大壁造で、腰壁部には多数の割石をはめ込んでいる。2階は柱や梁などの構造材をそのまま化粧材として外部に露出させるハーフティンバー様式を採用。寄棟造の大屋根と複数の切妻屋根、さらにハーフティンバーの壁面とが格調高いバランスを保っている。

 

 南側の1、2階には手すりの付いたコロニアル風のベランダを配置し、印象的な北欧風の飾り窓とともに変化に富んだ外観を構成している。西側の玄関を入ると暖炉のある広間に直接つながる。広間の奥は中廊下で、南側には客間、居間、食堂、寝室などがあり、北側には、書生室、台所などが並ぶ。

 

 優美な外観からはイメージできないほど構造は堅固で、昭和19(1944)年12月の東南海地震(昭和東南海地震)、同20年1月の三河地震という2度の大地震にもビクともしなかった。

 

 敗戦後は地元の女性の職業技術習得による自立支援を目的に、中埜家が設立した洋裁・服飾の専門学校「桐華学園(現在の桐華家政専門学校)」の本館として利用されていたが、昭和34(1959)年9月の伊勢湾台風では屋根が大きな被害を受けてしまい、国の重要文化財に指定された昭和51(1976)年ころには老朽化が目立つようになった。とくに屋根の破損で雨漏りが生じるようになってしまったため、地元では修復工事を計画し、文化庁に補助金交付を申請。国、愛知県、半田市の補助を得て同53(1978)年に補修工事を完了した。

 

 戦後、建物の所有者は中埜家から桐華学園に移り、平成24(2012)年には学園から半田市へ譲渡されている。半田市では、昭和53年の補修工事以来となる大規模な保存修理工事に平成25年から着手し、同28年に完了させている。

 

 かつては地元の女性の学び舎としても使われた旧中埜家住宅。いまも街のシンボルとして愛され、親しまれているこの洋風建築の周辺には、旧中埜半六家の本邸である和館の「旧中埜半六邸」、そして市民の憩いの場となっている日本庭園の「半六庭園」もあるので、ぜひそちらも訪れてみたい。

(写真提供:半田市立博物館)