【声】(2014年3月号)


明治の小説家で評論家としても知られる斎藤緑雨は、数多くのアフォリズムも著している。「刀を鳥に加へて鳥の血に悲しめど、魚の血に悲しまず。聲ある者は幸福也、叫ぶ者は幸福也、泣得るものは幸福也、今の所謂詩人は幸福也」(『半文銭』明治35年)もそのひとつ▼夏目漱石の『吾輩は猫である』で「名前はまだ無い」と自らを語るネコは、セミ(ツクツクボウシ)について「博学なる人間に聞きたいがあれはおしいつくつくと鳴くのか、つくつくおしいと鳴くのか」と問いかける▼なるほど「声」は、それを聞く側の耳や心にどう届くかによって解釈が大きく異なる。ホトトギスは「テッペンかけたか」、ツバメは「歯渋い・ハーシーブイ」といった「声」でさえずるものだと、勝手に聞きなすわけだ▼鳥の「声」を都合よく解釈しても取って食われはしまいが、相手がヒトとなるとそうはいかない。コミュニケーションの第一は「声を発すること」。もちろん、それが困難ならば手話でも筆談でもボディランゲージでもいいのだが、いずれにしても〝沈黙〟していては対人関係など成立しない▼自分の考えや思いを言葉にし、それを声に出して相手に伝える。当たり前のことのようだが、どの職場にもこれができない社員がいる▼「声ある者は幸福なり」。声を出さない社員は、自身も職場も不幸にしてしまう存在だ。