旧本多忠次邸

愛知・岡崎市(2017年4月号)



 紅葉の名所として知られる愛知・岡崎市の東公園。11月中旬から12月上旬にかけてはライトアップも行われ、イロハカエデの色彩が池に映える様は圧巻の美しさだ。

 

 旧本多忠次邸は、この総合公園の西端に建つ洋館建築。本多忠次は、徳川四天王・徳川十六神将のひとりに数えられる猛将、本多平八郎忠勝(1548〜1610年)を始祖とする旧岡崎藩主本多家の末裔。明治29(1896)年、本多忠敬(子爵)の次男として生まれ、学習院を経て東京帝国大学文科大学哲学科に学んだ。

 

 本多家(忠勝系)が岡崎藩の藩主となったのは明和6(1769)年のこと。それ以降、明治維新を迎えるまで、本多家が6代にわたってこの地を治めた。最後の岡崎藩主(忠勝系本多家宗家16 代当主)となった本多忠直は、明治2(1869)年の版籍奉還後も岡崎藩知事に任ぜられた。

 

 また、忠次の父の本多忠敬子爵も、廃藩置県に伴ってわずか2年で廃止された「岡崎藩」の教育事業に力を注いだ人物で、旧藩士・領民の子弟を育英するための「本多賞」を私費によって創設し、小中学生の勉学を奨励した。明治34(1901)年には東京へ遊学する郷土の子弟のために、本郷森川町の旧藩邸内に宿舎「龍城館」と学生寮舎「三河郷友会学生会館」を提供した。さらに、大正8(1919)年には旧岡崎城跡一円の土地を岡崎市へ寄付。市と県が折半で11万円余を投じ、5年をかけて旧城郭区域を岡崎公園として整備・完成させた。また、忠敬子爵の実弟である本多敏樹も、第2代の岡崎市長を務めた人物として知られる。

 

 この邸宅は昭和7年(1932年)、忠次が36歳のときに自ら基本設計を手がけ、東京・野沢(現在の世田谷区野沢)の広大な敷地(約2200坪)内に建てた住宅と壁泉の一部を、本多家ゆかりのこの地に移築したもの。

 

 平成11(1999)年、世田谷区野沢にあった本多忠次邸の敷地が売却されることになり、それに伴って建物の取り壊しが計画された。しかし、世田谷区教育委員会では、地域史的にみた本多邸の重要性から緊急調査の実施を決定。調査が進むにつれて本多邸の歴史的な価値が明らかとなり、取り壊し以外の道が模索された。その結果、岡崎市に建物が寄贈されることになり、解体された部材を運搬して復元、再建築された。

 

 昭和初期の邸宅建築に好んで用いられたスパニッシュ様式を基調に、一部チューダー様式を加味した木造2階建ての洋風建築で、屋根には赤褐色のフランス瓦を葺いている。1階の西側には車寄せをつけた玄関、南側中央には三連アーチのアーケードテラス、東側には2階まで続く半円形のボウ・ウィンドウを配置。外壁は色モルタル仕上げで、アーチや窓の枠には当時の洋館建築で流行したスクラッチタイルが貼られている。

 

 前庭には、国内のスパニッシュ建築様式の特徴ともいえる壁泉があり、その吐水口はシャチのレリーフで飾られている。そしてこのシャチと向かい合うように、建物には獅子の妻飾りがつくられている。

 

 洋館内部は和室と洋間との和洋折衷式となっている。接客空間と生活空間をセパレートさせた間取りは家族のプライバシーを重視したもので、時代の先駆けともいえる。また、各部屋の照明器具や家具には施主による意匠が随所に施されており、当時流行したステンドグラス、モザイクタイルとともに邸内を彩っている。館内の各所にはラジエーターが設置され、廊下には個人の邸宅には珍しい消火栓も見ることができる。

 

 岡崎市では、建築・意匠・技術・室内装飾に学術的な価値がある旧本多忠次邸を保存し、その活用を通じて市民に文化財保護への理解を深めてもらうことを目的として一般公開しており、邸内では当時の家具に加え、ステンドグラスなどの調度品も常設展示されている。

(写真提供:岡崎市教育委員会)